ひとりごと。

根暗人間が自分を好きになるための試行錯誤の日々。。

完璧を求めてしまう。それは、自分を受け入れられていないからじゃないか。

完璧主義。人によって、この言葉の印象や受け取り方は様々だと思います。

 

わたしがこの言葉に抱いているイメージは、とても堅苦しく、身が縮こまっている、そんな感じ。

全身の力を抜いて、心と身体も共にリラックスしている。穏やかな感情に包まれている。

それとは対極にある状態が、わたしにとっての完璧主義です。


そのイメージはどこから来ているのかというと、紛れもなく、わたし自身が完璧主義だからです。

わたし自身、スペックも高くも無ければ、何か秀でた点がある訳でもありませんが、完璧にできない、ということが不快になります。

 

何かを始めると、完璧にできない自分が許せなくなります。

そもそも、人間なんて誰でも長所もあれば欠点もある存在であるのに、わたしの中で完璧という概念が存在してしまうのです。


例えば、対人関係であれば、他の人と円滑にコミュニケーションが取れて、どんな人とでも仲良くなれる、仲良さげに話すことができる、そんな完璧な形のコミュニケーションがあるはずだという思い込みがあるのです。

 

 

ただ、この文章を読んで思った方もいると思いますが、わたしの言う完璧は、わたしの中のイメージなだけであって、抽象的です。

もっと具体的に、何ができれば完璧なのかは、わたし自身説明が出来ないのです。だって、わたしの中のイメージでしか存在しない概念なので。

 

 

わたしが、『この人、コミュニケーションが完璧に取れる人だな』と思う人がいたとしても、もしかしたらその人は心の奥底では、自分はコミュニケーションを取ることが嫌いだと思っているかもしれないし、相手側ももしかしたら、『この人、コミュニケーション力ないなぁ』と思っているかもしれません。

 

多分、この人のコミュニケーションは完璧だと思う人って、わたしが遠巻きにその人を見ているから抱く感想であって、その人と深く関わると、実際はコミュニケーション取るの上手くないじゃんと思うかもしれません。


そもそも、人間関係なんて所詮相性ですし、コミュニケーションと言うもの自体、人によって感覚が違う以上、明確な定義付けができるものではありません。正解も不正解もない世界なのです。


ただただ、相性の問題というだけなのです。


何が言いたいのかというと、正解も不正解もない世界に対して、完璧な100%の正解があるという思い込みの上に、完璧主義がある
ということです。

 

 

さらに言えば、先ほども言ったように、100%何かを完璧にできる人は、存在さないのです。時代によって、人々の価値観も基準も変化していくのです。つまり、絶対的なもの、完璧な物はこの世の中に存在しないということです。

 


ただ、完璧主義というものは、完璧というものが存在する、この思い込みにプラスして、自分の限界や欠点を受け入れられていないことも深く関係すると個人的に思います。

 

わたしの場合、行動量が少なすぎて、自分の欠点や限界を受け入れるという機会を設けていませんでした。

 

 

おそらく、やりたいことをやる人は、常に自分の限界や欠点に直面させられる場面に遭遇していると思います。

はじめの頃は、それを受け入れられなくても、何度も繰り返すうちに、自分が変えられない部分が分かってきます。


どれだけ頑張っても、自分のこの嫌な部分は変わらないということが腑に落ちる瞬間が訪れるのです。


そうすると、自分が変えられない部分が受け入れられるようになります。

自分はもっと能力が高いと思っていたけど、もっとやればできると思っていたけれど、実際は大したことない人間だということを受け入れる瞬間が訪れます。

つまり、自分の身の程を知る、という事です。

 

 

そうすると、自分に完璧を求めなくなります。

自分は所詮、完璧に何かを成し遂げられる人間ではない、そう思えるようになるのです。

やりたいことをやる、何かに挑戦し続けるという事は、自分の力量を知って、自分を受け入れるという作業に他なりません。

それを続けていくうちに、自分にも他人にも、完璧を求めなくなるのです。

 

 

欠点はあるけれど、欠点は特徴でしかないし、自分の個性であると思える人もいると思います。

 

そのフェーズにまでくれば、欠点も含め、あらゆる状況、環境に自分がどう適応するのか、を考えられるようになるのではないのかと、わたしは思います。