ひとりごと。

根暗人間が自分を好きになるための試行錯誤の日々。。

自分を受け入れられないのは、理想像が高すぎるからではないか

自分を受け入れることが重要だとよく言われますが、具体的にどういうことかイメージできるでしょうか。

 

よく「自分の感情を否定せず感じ切る」だったり、「自分の良い所も悪い所も否定しない」などと言われます。これが正しければ、これらのことができる人は、自分を受け入れているということになります。一言で言うと、自己肯定感が高いということになります。

 

良い面も悪い面も、これが自分だと受け入れられれば、周囲の人間がなんと言おうと自己評価が安定します。周囲に流されなくなる、ということです。

 

 

逆に、自己肯定感が低いということは、自分の良い面も悪い面も受け入れられず、周囲の人間が自分をどう扱うのかに自己評価が左右されてしまいます。「あの人が良いって言ってくれたから良いんだ」というように、他人が言ったことが正しいと思ってしまう傾向があります。他人に流されてしまいます。

 

また、自分の抱く感情に対して、「この感情を感じてしまう私はいけないのではないか・・・」など、分析し、善悪を持ち込もうとしてしまいます。例えば、「この人嫌いだなあ」という感情を抱いた時、「ああ、他の人を嫌ってしまう私はよくない」という具合です。感情に対し、罪悪感を抱いてしまうのです。

 

すると、ネガティブな感情を、どんどん抑え込んでしまいます。しかし、人間、溜め込むことはできません。ある時、急に爆発してしまいます。それを人の前でやってしまうと、扱い難い人になってしまうこともあります・・・(私がそうでした・・・)

 

 

 

私も元々、自己肯定感が低いタイプです。最近は比較的マシになりましたが、昔は、自分の感情や思ったことが、正しいことだとは思えませんでした。自分よりも、他の人の感情や考えが正しいと思っていました。周囲に流されてしまうことも多々ありました。

 

 

しかし、ここ数年で、自分の頭で考えて行動する機会が増えました。そうすることで、自分がいい方向に変われて嬉しかったことも多々ありました。

 

しかし、それ以上に、何度も失敗することで、自分の変えられない面にも直面しました。自分はもっと変われると思うのに、変われない自分に不甲斐なさを何度も感じました。

 

しかし、それを繰り返すうち、だんだんと、「ここの悪い面は、もうどれだけ頑張っても変えられないんだ」と諦めの境地になります。この諦めの境地は、決してネガティヴな意味ではなく、「もう受け入れるしかない・・・」という境地です。

 

つまり、行動をして成功したり、失敗したりを繰り返すことで、自分を受け入れられるようになるのです。自分を受け入れられるようになるには、行動が必要なのです。

 

おそらく、自己肯定感が強いタイプの人は、行動をすごくしている可能性が高いです。人知れず、たくさん行動し、たくさん成功し、たくさん失敗しているのでしょう。

 

私自身がそうだったのですが、自己評価が低い人は完璧主義でもあります。そもそも、自分を受け入れられないのは、「実際の自分」と「頭の中の理想の自分像」が乖離しているからです。例えば、女性であれば、「美人で気配りもでき、誰からも好かれ、仕事もできて超イケメン彼氏がいる」状態を理想像として持っていると、美人でない時点で私はダメ。さらに誰からも好かれていない私もダメ。仕事もたいしてできないし、超イケメン彼氏どころか、彼氏すらいない私はもっとダメだ・・・・となってしまうのです。

 

本来であれば、自分の存在価値と、美醜・人から好かれること・仕事ができること・彼氏がいることは、イコールにはなりません。美人だから自分には存在価値がある、ではないのです。

 

自分がどんな見た目であろうとも、スペックであろうとも、私はここに存在していいのだ、生きていていいのだ、と思えることが、自己肯定感です。

 

自己肯定感が低い場合、自分の理想像と実際の自分の自己評価が一致していないのです。

 

しかし、一体その理想の自分像はどこからきているのでしょうか??

理想の自分を実現できて、自分はどうなるのでしょうか??

 

「美人で誰からも好かれ・・・」というのは、本当に自分の心が望んでいることでしょうか。本当に自分の心からきているものでしょうか。

 

よくよく考えてみると、それらの理想像は、雑誌やテレビ、ネットなどのメディアから来ているのではないでしょうか。

 

また、それを実現した時、自分は何を手に入れることを望んでいるのでしょうか。おそらく、人からの賞賛、承認だと思います。

 

しかし、人からの承認を受け続けることは不可能ですし、どんな完璧に見える人でも、必ず誰かに嫌われています。つまり、人から100%賞賛されることはないのです。必ず否定してくる人はいます。つまり、人に左右されることになるのです。

 

その状態になったとしても、果たして自分は幸せなのだろうか?

自分が心の底から望んでいることは何なのか?がみえてくれば、高い理想像を、少しずつ現実の自分に合わせられるようになるのではないでしょうか。

 

私もまだまだ、試行錯誤の毎日です・・・・

やるべきことをやりたくないとき

「ああ、あれをやらなくちゃ・・・」と思っていても、めんどくさくて後回しにしてしまうことは、誰にでも経験があることだと思います。

 

これをやらないと、あとで困るのはわかっているんだけど・・・・めんどくさくてやりたくないから、やらなくていいやと私自身、よく思ってしまいます。

 

しかし、これを繰り返すと、あとで本当に困る瞬間が訪れます。

 

例えば、洗濯。洗濯がめんどくさいと後回しにしてしまうと、どんどん着る服がなくなります。洗濯を後回しにすることで、数日後の自分が、「着る服がない」と困った状態になります。つまり、洗濯をしないという行動をし続けることで、数日後の近い将来の自分が困る状態を作り出してしまいます。

 

何かの行動をすることで、結果が出る。その結果が少し先の将来の自分に多少なりとも影響を及ぼす。それと同じことが、「何かをやらない」という選択をすることで起こるのです。

 

何かをやらないことで、少し先の自分が今の状態と変わらないということはありません。やらないという選択も、少し先の自分に影響を与えるのです。

 

 

私達の日常の多くのことは、行動することで得られる結果がある程度予測できます。おそらく、わたしたちは、何かをする前に、その行動によって得られる結果をある程度予測しています。そして、その予測した結果が自分にとってメリットであると判断すると、その行動をする場合が多いと思います。逆に、結果が悪くなると予想すれば、「その行動をしない」という選択を取ることが多いのではないでしょうか。

 

それと同様に、「何かをしたくない」と思ったとき、その何かをしないことによって、少し先の自分の状態が今の自分の状態よりも悪くならないのかを考えることが多いと思います。その行動をしなくても、今の自分の状態より悪くならないと判断すれば、行動しないという選択を取ることは往々にしてあり得ます。

 

もちろん、悪くならなければやらなくても問題ありませんが、やらないことによって状況が悪くなるということは多々起こります。それを自覚していても、どうしてもめんどくささが勝ってしまうこともあるのではないでしょうか。

 

その状態が、「やらなきゃいけないとわかっているのにできない」ということです。

 

つまり、やらないと少し先の自分の状況が悪くなるとわかっていても、今の自分が不快だからやらない、という選択をしてしまうのです。少し先の自分よりも、今の自分の快・不快で行動するかしないかを決めてしまうということです。

 

 

身近な例で言うと、掃除などが当てはまります。掃除をすれば、綺麗な状態を保てます。しかし、掃除をしなければ、どんどん汚くなります。部屋は心の状態を表すと言いますが、汚くなることで、無意識のうちに、自分の精神状態にも悪影響を及ぼすこともあります。

 

逆に言えば、やらなきゃいけないことをやりたい場合、行動したことで得られる、少し先の自分の状態を少しポジティブに考えることで、今の自分の快・不快を抑えられるのではないでしょうか。

 

その際、その少し先の状態を、自分が「こうなったらいいな」とワクワクするような想像をするのが一番いいと思います。

完璧を求めてしまう。それは、自分を受け入れられていないからじゃないか。

完璧主義。人によって、この言葉の印象や受け取り方は様々だと思います。

 

わたしがこの言葉に抱いているイメージは、とても堅苦しく、身が縮こまっている、そんな感じ。

全身の力を抜いて、心と身体も共にリラックスしている。穏やかな感情に包まれている。

それとは対極にある状態が、わたしにとっての完璧主義です。


そのイメージはどこから来ているのかというと、紛れもなく、わたし自身が完璧主義だからです。

わたし自身、スペックも高くも無ければ、何か秀でた点がある訳でもありませんが、完璧にできない、ということが不快になります。

 

何かを始めると、完璧にできない自分が許せなくなります。

そもそも、人間なんて誰でも長所もあれば欠点もある存在であるのに、わたしの中で完璧という概念が存在してしまうのです。


例えば、対人関係であれば、他の人と円滑にコミュニケーションが取れて、どんな人とでも仲良くなれる、仲良さげに話すことができる、そんな完璧な形のコミュニケーションがあるはずだという思い込みがあるのです。

 

 

ただ、この文章を読んで思った方もいると思いますが、わたしの言う完璧は、わたしの中のイメージなだけであって、抽象的です。

もっと具体的に、何ができれば完璧なのかは、わたし自身説明が出来ないのです。だって、わたしの中のイメージでしか存在しない概念なので。

 

 

わたしが、『この人、コミュニケーションが完璧に取れる人だな』と思う人がいたとしても、もしかしたらその人は心の奥底では、自分はコミュニケーションを取ることが嫌いだと思っているかもしれないし、相手側ももしかしたら、『この人、コミュニケーション力ないなぁ』と思っているかもしれません。

 

多分、この人のコミュニケーションは完璧だと思う人って、わたしが遠巻きにその人を見ているから抱く感想であって、その人と深く関わると、実際はコミュニケーション取るの上手くないじゃんと思うかもしれません。


そもそも、人間関係なんて所詮相性ですし、コミュニケーションと言うもの自体、人によって感覚が違う以上、明確な定義付けができるものではありません。正解も不正解もない世界なのです。


ただただ、相性の問題というだけなのです。


何が言いたいのかというと、正解も不正解もない世界に対して、完璧な100%の正解があるという思い込みの上に、完璧主義がある
ということです。

 

 

さらに言えば、先ほども言ったように、100%何かを完璧にできる人は、存在さないのです。時代によって、人々の価値観も基準も変化していくのです。つまり、絶対的なもの、完璧な物はこの世の中に存在しないということです。

 


ただ、完璧主義というものは、完璧というものが存在する、この思い込みにプラスして、自分の限界や欠点を受け入れられていないことも深く関係すると個人的に思います。

 

わたしの場合、行動量が少なすぎて、自分の欠点や限界を受け入れるという機会を設けていませんでした。

 

 

おそらく、やりたいことをやる人は、常に自分の限界や欠点に直面させられる場面に遭遇していると思います。

はじめの頃は、それを受け入れられなくても、何度も繰り返すうちに、自分が変えられない部分が分かってきます。


どれだけ頑張っても、自分のこの嫌な部分は変わらないということが腑に落ちる瞬間が訪れるのです。


そうすると、自分が変えられない部分が受け入れられるようになります。

自分はもっと能力が高いと思っていたけど、もっとやればできると思っていたけれど、実際は大したことない人間だということを受け入れる瞬間が訪れます。

つまり、自分の身の程を知る、という事です。

 

 

そうすると、自分に完璧を求めなくなります。

自分は所詮、完璧に何かを成し遂げられる人間ではない、そう思えるようになるのです。

やりたいことをやる、何かに挑戦し続けるという事は、自分の力量を知って、自分を受け入れるという作業に他なりません。

それを続けていくうちに、自分にも他人にも、完璧を求めなくなるのです。

 

 

欠点はあるけれど、欠点は特徴でしかないし、自分の個性であると思える人もいると思います。

 

そのフェーズにまでくれば、欠点も含め、あらゆる状況、環境に自分がどう適応するのか、を考えられるようになるのではないのかと、わたしは思います。

考えすぎるのではなく、考える

「あの時、ああしておいた方がよかったんじゃないか」、「あんなこと言わなければよかった」・・・など、少し前のことを振り返って、延々と考えこんでしまうことが、皆さまにもあると思います。

 

 

私は、考えこんでしまうタイプです。

他の人から見れば、ほんの些細なことでもずーっと考えこんでしまいます。下手すると、失敗もしていないし、誰からも何も指摘されていないのに、「あの発言はまずかったかな・・・」などと延々と考えてしまうことも多々あります。

 

 

考え過ぎると、頭の中で、悪い方向に妄想をし始めます。

「他の人から、あいつは気が配れない」と思われて、最悪の場合嫌われるんじゃないか・・・・嫌われたら、この環境では生きていけない・・・といった具合です。

現実に全く即していない妄想をひたすら続けるので、解決策や、「次はどうするか」といった建設的な思考にならず、妄想だけして状況は何も改善されないままです。

まあ、私がここまでネガティブになる場合は、身体が疲れていたり、寝不足のことが多いので、その辺りを解消すれば多少軽減されます。

ですが、私の性格的に、考えこんでしまう傾向があるようです。

 

 

考え込む思考回路がこびりついてしまうと、言い訳を考えるのも上手くなります。

頭の中で、現実に即していない妄想を続けると、それをやらなくて良い言い訳が思いついてしまうんです。

 

 

そうすると、行動をしないという選択を取ることが多くなり、その結果、状況は変わらないままだし、自分の経験値も上がらない、といったことになります。

そのため、考えすぎは、慎重と言い換えることもできるのでしょうが、私個人としては、行動の妨げにもなるという意味で、厄介なものでもあります。

 

 

考える事自体はとても良い事です。というより、大人になれば自分で考え、選択することが求められるので、自分で考えるということができるようになる必要があります。

ただ、考えすぎまでいくと、行動の妨げになります。

じゃあ、考えるということはどういうことかと言うと、「次はどうするのか」を考えることだと私は思います。

 

 

自分が何かを選択して行動する。そうすると、必ず何かしらの結果がでます。

その結果が自分が求めていたことかどうかに関わらず、です。

その際、原因を考えることも、今後に活かす材料として必要なことにはなりますが、原因を考えることは、過去を考えることとなります。

そのため、考えすぎの傾向にある人は、ある程度の所で止めることも必要です。

 

 

それよりも、出て来た結果に対して、「自分は次はどう動くのか」と、少し先の未来を考えた方が、次の行動につながりやすくなります。

そもそも、その思考ができるようになるためには、結果を受け入れるという作業があります。

 

 

その結果が自分が望まないものであっても、その結果を自分で受け入れるのです。

それができれば、「この結果になったのは分かった。じゃあ次はどうする?」と考えることができるようになるのです。

 

 

逆に、結果が受け入れられないと、周囲のせいにしたり、過去のことを何度も考える、という行動をしてしまいます。なにも状況が改善しないということです。

恐らく、結果が受け入れられないということは、行動する前に自分で「こうなって欲しい」と思っています。

 

 

その希望を元に、行動に移します。その事自体は悪いことではありません。

しかし、期待しすぎると、結果に執着するようになります。

事前に結果を予測して行動することは良いことです。

しかし、結果に期待しすぎるのは止めた方がいいでしょう。

 

 

このことを意識するだけでも、フットワークが軽くなってくると思います。

やりたいことをやるということは、自分の至らない点と直面せざるを得ないしんどいことでもある

やりたいことをやるということって、とても聞こえがいいように感じます。

やりたいことをやれる自由がその人にはある。やりたいことができる時間や経済的な余裕が無いとできないよ、と感じる方も多いのではないでしょうか。

 

 

そもそもやりたいことがある人って、自分が何をしたいのか分かっていないと出来ないことです。

やりたいことが無い人、あるいは何をやりたいのかが分からないという人にとっては、やりたいことをやってる人が羨ましくも見える・・・

少なくとも、私はそうでした。

 

 

私自身の話をすると、私は周囲の目を気にして、自分のやりたいことを抑えつける傾向があります。

自分がやりたいことや思ったことよりも、周囲の意見であったり、空気を読んでしまい、周囲を優先するということを繰り返してきました。

優等生という訳ではないけれど、空気を乱さない大人しい人間で、私を扱い易いと思っている人も多かったのではないかと思います。

しかし私の場合、それをやりすぎたが為に、自分を抑えすぎてしまい、自分が何をどう感じているのかが分からなくなってしまった時期がありました。

自分が確かに抱いている感情や考えはあるのだけれど、それが周囲から見た時に、正しいことだと思えず、自分の感情や考えを否定し続けていました。

そのため、自分を表現しない人間になり、扱い易い面もあった一方で「あの人は何を考えてるのか分からないよねー」と裏で言われていたこともあります。

 

 

社会人になるまではそれでも生きていけました。しかし、自分自身の全てのことを、自分で考え自分で行動し、その責任を自分で取るという状況の中では、今までの生き方では太刀打ちできなくなっていました。

 

 

社会人になると自由になります。雇用形態から、業界、業種、会社など、自分がどこで働くのかも自由に決められます。

また、経済的にも自立できることによって、プライベートも全て自分の好きなように決められます。

例えば、家事をやるのかやらないのかから、結婚するのかしないのか、お金をどう使うのか、などです。自由ということは、全て自分で決めないといけない、ということでもあります。

 

 

そのため、自分で考え、行動をするということをあまりしてこなかった私にとっては、社会人になってから、とても生きづらさを感じるようになりました。

何となく、今の会社は辞めたいんだけど、辞めて何がしたいのか分からないから辞められない、そんな日々が続きました。

つまり、自分のやりたいことが分からず、迷走する状態に陥りました。

 

 

 

しかし、そのときの私は、「行動をしないと何も変わらない」ということと、「やりたいことは、行動し続けない限り見えてこない」ということが分かっていませんでした。やりたいことも分からない癖に、言い訳をして行動することを避けていたのです。

やりたいことをやっている人は、最初からやりたことが分かっているはずだ、だけどそれが無い自分にはやりたいことが無いんじゃないかと思い込んでいました。

 

 

しかし、以前記事にも書きましたが、私自身の口癖を意識するようになってから、頭の中では私はやりたいことが浮かんでいるにも関わらず、自動的に「でも〜だから出来ないよ」とやらない言い訳をしていたことに気がつきました。

つまり、言い訳をしなければ、やりたいことがどんどん見つかるのではないかと思い始めました。

その結果、少しでも頭に浮かんだやりたいことを、片っ端からやるようになりました。不思議なことに、やりたいと思ったことをやると、さらに別のやりたいことが次々と浮かんでくるのです。

私はまだ自分の人生をかけたやりたいことは見つかってはいませんが、やりたいと思ったことをひたすらすれば、いつか本当にやりたいと思うことが見つかるのではないかと思っています。自分でも楽しみです。

 

 

 

しかし、やりたいことをやるということは、楽しい反面、しんどくもあります。

自分が望んだ結果になればいいのですが、望まない結果になってもそれを自分の責任として受け止めないといけない。

望まない結果になった事に対し、言い訳はできないのです。また、やりたいことというのは、今の自分ができないことだったりします。

例えば、英語が話せないけれど、話せるようになりたい、など。その場合、やりたいことではあるのだけれど、出来ない自分であったり、自分の欠点や至らない点に直面させられることも多々あります。

頭の中の自分はもっとできると思っていたのに、実際に行動すると全然できない現実の自分にがっかりすることもあります。そういった意味で、楽しくもあり、しんどくもあります。

 

しかし、そのフェーズを乗り越えないと、本当に自分のやりたいことは見えて来ないはずだ、そう想いながら毎日ひたすらやりたいことを追いかけるのも、楽しいです。めまぐるしい日々ではありますが・・・・

社会で生き残るために男性的な強さをだけを追い求めなくてもいいんじゃないか、という話

女性が社会で働くことは大変だなと思う事が多々あります。会社の風土や地域などによって差は出るのでしょうが、まだまだ日本社会は男性中心だなと感じる事が多々あります。


今のご時世、女性の社会進出は進んできています。年々、女性の新入社員の数も増えているし、幹部社員になる女性も増え、女性の社会進出が進んできているな、と個人的に感じることも増えてきました。しかし、それでも未だに、人によっては、「これだから女は~」というような嫌味を言ってくる人、その気配を出してくる人はいます。女性の社会進出が進んでいるとはいえ、まだまだ男性中心の風土や慣習が残っているな、と感じることもあります。女性の働きにくさ、を感じ取ることもあります。


それでも、なんとか自分の考えを主張したり、どうすれば何かトラブルがあっても、自分に非がないようになるかを考えながら、毎日仕事をしていました。嫌な事があると、昔はよくトイレで泣いていましたが、もう最近ではほとんど泣くことは無くなりました。それだけ歳を取って、図太くなってきているということなのでもあると思いますが.....


自分なりに試行錯誤しながら、自分なりに男性社会で生き残るためにはどうしたらいいのか、を日々考えてきました。


しかし、ふとある時、「わたしは、社会で生き残るために、男性らしい強さを身につけようとしてきたけれど、本当にそれはわたしが望んでいることなのか?自分の女性らしさを抑えて、男性らしい強さを身につけても、わたしは幸せなのだろうか?」と考えるようになりました。


わたしの、女性らしい良い面を職場で発揮できていないな、と感じることが増えてきました。無理に女性性を押し殺して、周りの人たちと張り合う、という形を取らなくてもいいのではないかと近頃は思います。仕事をしている時に、あまりに女性らしさを前面に押し出すのも如何なものかとも個人的には思いますが、いい意味で女性らしい面も、少し強気な男性らしい面も、どう自分の中で調整すれば良いのか、どうバランスを取ればいいのかを考える日々です。

頭だけで考えすぎないことの大切さ

毎日の仕事に追われ、気がつくと心が置いていかれてるな、と思う時があります。頭で考えてしまって、心が置いていかれてる、そんな感覚。身体の方も、どこか力んでいて、つねに臨戦態勢というか、緊張してる。心も、リラックスする時のような穏やかな感情に包まれているのではなく、イライラカリカリといった怒りに近い感覚に支配されている、という感じ......


わたしも、毎日の仕事に追われ、自分の事を後回しにしていると、ふと気がつくとそうなっていることがよくあります。


頭で考えすぎる、つまり、思考を優位にさせすぎると、思考がオーバーヒートしてしまい、心からの声が聞こえなくなる。心では違うことを望んでいるのに、思考を優位にしすぎると、一般常識や世間体などを優先してしまう。思考を優先させすぎると、心との乖離が起こります。心を抑えつけるということを、無意識にやってしまう、ということが起こります。


そうすると、ある日突然感情が抑えられなくなり、爆発したり、体調が悪くなる、などの事が起こることもあります。また、心を抑えつけることが長年の習慣になってしまうと、自分が何を望んでいるのか、何をしたいのかがわからない、ということも起こり得ます。


そうならないためにも、自分なりの、思考を抑え、心や身体の方に意識を向けさせる習慣を見つけることがとても重要となります。


その方法は人によって様々ですが、例えば自然に囲まれたり、運動をしたり、何かに一人没頭できることをする、などが挙げられます。日常的にやる習慣を身につけたいですよね。